「当事者の周囲にいる大人、その責任」 田中緑(仮名)
この会報が読まれる頃、弟はようやく得た我が子との「面会交流」の日を迎えます。自分の子供に対して「面会」という言葉を使わねばならないことには、いつまでも強い違和感とともに嫌悪感を覚えますが、そんなことを気にしていられないほど、今置かれている状況は何もかもが理不尽です。我が子を連れ去られてしまったのに、連れ戻すことは許されない。事実無根のDV夫に仕立て上げられ、嘘がばれて逃げ場を失った相手が訴えを取り下げてもなお、被害者だと申し出た者の意思だけが尊重される。こちらだって親権者なのに、我が子から引き離されたままでいる。子供を抱え込み、自分の意のままに周囲を動かす妻を支援するための婚姻費用を送り続ける…。
誘拐も冤罪も搾取も甘んじて受け入れよ、とはまさに悪夢です。パパっ子だった愛娘たちは3歳9か月と1歳7か月だったある日、癇癪を起した母親によって突然父親を奪われました。毎晩にぎやかにパパの腕枕を奪い合っていた姉妹は、いまどのように夜を過ごしているでしょう。引き離されてから実に7カ月ぶりに初めて短い時間の再会が叶ったとき、弟は「この子はこんな声だったのかと思ったよ」とだけ言いました。引き離されている間にも子らは成長し、下の娘は言葉を話すようになっていたのです。わが子の成長をこのような形でしか知りえない親の無念さ、そして血を分けた親から引き離され、連れ去った親の意のままにされる子供への影響を慮るに、この国ではなんと野蛮で非人道的な行為がまかり通っているのかと戦慄がはしります。
この状況をよしとする人、たとえば民主党の井口まさえ議員にぜひとも説明いただきたいものです。彼女が平然と「母親による連れ去り」を肯定している動画を私も見ましたが、そんな彼女をShe snatched her three children…と紹介するナレーションこそ人として自然な感情だと思うのは、私が被害者側だからなのでしょうか?
昨年の夏のある日、いつものように子供らに見送られて出勤し、仕事を終えて帰宅した弟を待っていたのは、もぬけの空の家と妻の置き手紙でした。手紙には丁寧な字で、離婚話に行きつく原因のひとつだった金銭トラブルに関する開き直りの言葉と、子供は自分が一人で育てるという内容が書いてありました。身よりがなく、交友関係も少ない妻が幼児を連れて身を寄せるあてなど無く、まさか事件に巻き込まれたり、怪しい宗教団体にでも引きずり込まれたりしてはいないかと、弟も私たち家族も思いつくところの全てを遠く関西まで必死で探し回りました。不自然なまでに何の手がかりもつかめないまま3週間が過ぎたころ、親身に協力してくれていた警察が手のひらを返したように態度を硬化させたのと前後して、裁判所から封書が届きました。中身は妻からの、自分と子供らの保護申し立て書でした。堅物なほど真面目な夫に自分の非を指摘されてはヒステリーを起こし、夫に暴力をふるったり、子供らの目の前で炊きあがったご飯を炊飯器ごと投げ捨てるような女性の何を保護するのかは片腹痛いところですが、ともかくもその文書を受け取った日から、連れ去られた側の生き地獄が始まりました。
そんな想像もしなかった災難で参ってしまっていた私に、親しい人が「所詮兄弟のことなのに、なぜそうまで肩入れするの?」と言いました。その言葉に私は、誰にも理解してもらえない異常な状況にいるのだと一層孤独な思いを募らせたものですが、そんな折、いつの日か姪たちが帰ってきた時のため、発達心理に詳しいカウンセラーと話す機会を得ました。不自然な環境に置かれている姪たちを思ってのことでしたが、思いがけずこれを契機に様々なことがよみがえってきたのです。そして、父親から引き離されてしまった幼い姪たちに、私自身を重ねて見ているのではないかという思いに至りました。
私自身は片親家庭であることを母が負い目に感じるほどには気にしていないつもりでした。しかし、抑えていた感情があったようです。私は幼いころに両親が離婚し、弟とともに母によって家から連れ出され、一時は双方の親による私自身の奪い合いも経験しました。転校先の小学校に突然現れた父方の祖母が「おうちに帰ろう」と私の手を掴んだときのことも覚えています。ほかにも色々なエピソードが記憶の中に眠っていました。
「前だけを見て生きてきたから子供時代のことはほとんど覚えていない」と思ってきましたが、子供は「辛い感情」を「忘れる」ことで無意識に身を守っているのだそうです。心理学の用語があると聞きましたが、そんなことよりもまさにいま、姪たちが「忘れないとやっていけない」時間を過ごしているのではないか、と心配で胸が張り裂けそうです。
苦労をかけた母への深い感謝は、ときに恨みの感情と表裏一体でした。母がつい口にする父や父方を非難する言葉は鋭く私の心に刺さり、申し訳ない気持ちといたたまれない気持ちが高じて母を恨む気持になっていたようにも思います。
一緒にいて、ご飯を食べさせて、服を着させて、学校にも行かせてくれるのは母親なのに、その場にいない、生活のどこにも関わらない父親の存在を否定されることがなぜこんなに苦しいのかは子供でも理解していました。親を否定されるのは自分自身を否定されていることだと受け止め、しかもそんな感情は、今の自分の生活を成り立たせてくれている親に、知られるべきではないとも察していました。
私は引き離されて何年もたってから父親と行き来ができるようになりましたが、その頃にはとうに抱っこしてもらう年齢でもなくなっており、父親とどう接すればよいか分からず、困惑しました。男親を得た弟は大喜びでしたが、私は父親が喜ぶので会っているという感覚でした。いてほしかった時にいなかったくせに、と反抗的な気持ちも少しありました。しかしそのぎこちなさすらも少ずつ受け入れて、紆余曲折を経たなりの関係を築いています。かけがえのない子供時代に父親不在だったことは残念なことですが、どんなことがあっても、親はかけがえのない親なのです。
私には両親が離婚に至ったことを責める気持ちは全くありません。結婚していようがいまいが、もっと言うなら、一緒に住んでいるかどうかも重要ではありません。
いつもちゃんと見守ってくれていると感じられればそれで良い…とは言えなくても十分我慢できるのです。
しかし若い夫婦の周囲にいた誰かが、頭に血の上った夫婦を諭すか無理やりにでも、子供との縁を途切れさせぬように仕向けてくれなかったかと、本当に残念で悔しく思います。こう思い返してきて、なぜこうも身を引き裂かれるほどに弟夫婦のことに悩み、姪たちを案じずにはおれないのかがようやく腑に落ちたところです。いままさに私が、「そのとき若い夫婦の周囲にいた誰か」だから、とても傍観者ではいられないのです。
片親不在だった自分の子供時代にできる限り戻った目線で、この会の、子供のために不条理に立ち向かう皆様を見たときに、私はとても頼もしく、誇らしい気持ちすら覚えます。
いま不本意な状況に苦しんでいても、その時間以上のものが取り返せるときは必ず来ると私は信じています。