「最初で最後の調停」 父ヒロシ
ある日突然警察の方から携帯に電話がきまた。あなたは精神的虐待で妻子は出ていきました。私は仰天し急いで帰り早退してみると、洗濯物もそのままで、食べかけのものがそのまま残されていました。
私はその当時DV法の存在すら知らず呆然自失となりました。実家に食糧、衣服、お金を届けようとしましたが拒否されました。
円満調整の申し立てや弁護士への相談などやれることはやりましたが、妻からの連絡はありませんでした。妻の方は行動も早く、家を出てから1か月もたたないうちに、別居後の住まいの下見、生活保護などの行政機関への申請を済ませていました。恐らく、行政機関に勤める姉の勧めもあったのでしょう。妻子の住所もわからなないまま、半年近くたちました。
その後、妻の方から離婚調停が申し立てられました。妻には弁護士2人がついており、慰謝料、養育費はいらないが、離婚と親権を認めてほしいとのことでした。ただ私は、妻が子どもの教育に興味がない人なので、子どものことを考えると離婚には慎重でした。
私は、今は収入が少ないため月々の養育費5000円払い、収入が増えたら増額することを提案しました。面会に関しては、15歳まで半年に一度私に娘の写真を送るという提案をされました。写真だけの面会には納得できなかったので、私は次回の調停を考え承服しませんでした。
2時過ぎから始まっていた調停は5時を過ぎていました。相手の事情を聞くため待合室で待っていると、調停中は終始寝ていた調査官が来て、次回の調停の日程を提案してきました。提案された調停日は今回の調停日から3週間しかなく、仕事の都合もあり、また弁護士をつけたい気持ちもあったため、もう少し後ろにずらして欲しいと要望しました。そうしたら、5人の家裁関係者にとりこまれ、調停不成立を言い渡されたのです。最初の調停で不成立となり、私は唖然としました。
帰り際には、審判官の「エレベータはそっち!」という恫喝の言葉が聞こえました。誰のため家裁なのでしょう。何のために税金を払っているのでしょう。これでは娘があまりにも惨めで不憫です。