「連れ去り離婚 ~大人が子どもを裏切らないために冤罪と戦う~」 伊東正之
連れ去り
突然愛する子どもを奪われた夜は、人生で最も恐ろしい思いをした夜になった。
平成21年11月28日 23時頃
草野球の忘年会から帰宅した私は、リビングが暗いのでハっとなった。
不安が的中しないように祈りながら人の気配がしない奥のリビングへいき、急いで電気をつけた。
テーブルには置手紙と通帳とマンションの権利書がある。
「またやられた!」2度目の連れ去りに愕然とする。
「探さないでください」という置手紙の内容から相手の決意が読み取れる。
うろたえる私はその恐怖で大きく呼吸を乱している。
視野が極端に狭くなり、世の中が歪みだす。
もうまっすぐに歩けている感じがしない。というか体全体が自分のものだという感じさえ無い。
「あ~ あ~」小さいため息が言葉になったような情ない声をだしてうなり続ける。
恐ろしい。本当に恐ろしい。
急いでタクシーに飛び乗って妻の実家のある川口へ向かった。
忘年会の酒などどこかに吹き飛んで「正太郎 正太郎」と息子の名前をつぶやきながらさらに恐ろしい不安が的中しないことを願い続けた。
1度目の連れ去りは平成20年9月22日に行われた。人生で2番目に恐ろしい思いをした日だ。
私は相手の実家の引っ越しの予定を聞いていたが、引っ越し先の住所を知らされていなかった。
引っ越し自体、私も手伝うことになっていたのだが、妻は故意に私に知らせなかったのだ。
しかしその時は引っ越し先の話しを聞いていた時の「○○の近くだ」という義母との会話を覚えていたので、その言葉だけを頼りに、父をつれて一緒に川口まで行き、相手が乗って行った自転車だけを頼りに二人で探し続けた。
運よく義母が散歩に出てきた所に出会うことが出来たが、私との仲は良かったはずの義母の態度は別人のように変わっていて、強い敵意をあらわにしたのだ。私には義母がなんでそのような態度になったのか、その時はさっぱりわからなかった。
しかし後に明かされていく事実を次々とつなぎ合わせると、ドラマ以外でこんなことが起こるのかというほどの詐欺などの言葉では表せないほどの裏切りのシナリオが浮かび上がる事になる。
話しは2度目の連れ去り 平成21年11月28日 24時頃のタクシーの中に戻る
さらに恐ろしい不安とは1度目の連れ去りと同じ不安、義母が協力者であるのかということだ。
1度目の連れ去りからの1年以上、相手の実家に立ち寄ることを本当に相手が嫌がったために、私は2回しかこの川口の実家に来ることが出来なかったので、場所をしっかりと把握していなかった。
タクシーを降りてからも30分ほど探してやっとこの場所だという所までたどり着いた。
たどり着いて凍りついた。息を切らし、たくさんの汗を流して凍りついた。
ここには誰も住んでいない。一目見て生活感の全くない空き家だとわかった。
不安はやはり的中した。義母はグルだ。また実家ごと引っ越していた。この親子はおかしい。
そしてその瞬間から私は本当におかしくなった。もう気が変で仕方がない。もう死にたいと本気で思うほど苦しくてたまらないのだ。人目を気にせず、唸りながら泣いて歩いている。
どのように家に帰ったかはまったく覚えていない。
高い所を探したのと、あそこに上ったら終わってしまう。そう考えたのを覚えているだけだ。
~続く~
というような事があって約1年この様な連れ去りを、存在しない私から相手と息子へのDVをでっちあげて450万もの慰謝料を請求し、実際は相手が使い込んだはずの大金をうやむやにするという、ろくでもない企みの元に行われ続けています。
そこには「DV法マニュアル」を逆手にとって、人の家庭を無理やり崩壊させる手助けをして奪い取った財産からパーセンテージで賃金を得ようとする、まさに「悪徳弁護士」が存在しています。
いまもなお法廷内で私の向かいに座り、半笑いしたまま言いがかりをつけて、私の怒りをあおり、少しでも声を荒げれば「ほら暴力的だ、発言の記録をとってください」などというのです。
少し前に話題になった「別れさせ屋」なんかのレベルではない。法律の元に「連れ去り」「引き離し」が正当な行為だと、DVはでっちあげておいてそのような答弁を平気で行う本当に悪質な行為が何の咎めも無く行われ続けているのです。
しかし法律のまえに道徳があることを忘れてはならない。
法律では間違いじゃないから相手が嫌でも関係ないよ。は通らない。
これから次に書くのは私が考える 当たり前の道徳の部分です。
ぜひ、当事者、子ども、おとな、たくさんの人に読んでもらって
間違いをたくさん指摘してほしい。
みんなで、社会で考えてほしい。 一番単純で 一番大切な われわれ人間のスタートの部分だとも思うのです。
大人が子どもを裏切らない
大人が子どもを裏切ってはならない。
物事の全てに対して言っている訳ではない。
子どもが大切にしているもの、信じているものは何なのかを自らが子どもであった頃の目線を持って理解し、それを簡単に失わないように大人として願ってあげなければならない。
もしそれを失ってしまったらたとえ相手があまりに幼くとも、全力で子どもを慰めしっかり子どもが理解して生きていけるように最低限してあげなければならない。
ましてや大人側の都合だけでそれを失う事を決定してしまったのならば、どんなにやむを得ない事情があるとしても大人自らの至らなさを心から謝罪して説明し、大人にも解決できない事があることを伝えなければならない。
なぜならば、いずれ子どもは「大人の嘘と裏切り」を絶対に理解してしまうからである。
適当に都合のよい言い訳をしてきた大人をしっかりと見抜き、大人なんかは信じられない、愛情なんか信じられない、何が正しいのか、何が信じられるのか、誰にも相談できないまま己の未熟な判断だけをもって生きていく早熟な子どもたちがまさに勝手な大人のせいで生み出されてしまうのである。
その幼い未熟な判断だけでは、残念ながら物事の見極めが難しく、幼い人生は闇の方向に向かう事も多くある。
悪の闇は時に甘く楽しく魅力あるもので、それが危険なものであったと自身で気付くときは後悔の時が長く過ぎてしまっている。
未熟な判断しか出来ない子ども達には当然、その判断自体が未熟であることも理解できない。
信用できる大人が存在しその経験値をもって子どもに強制でないアドバイスを、愛情をもってしてあげることで、子どもの判断は健全なスピードで熟していくのである。
すべての子どもはそのアドバイスを自由に得る事が出来るはずなのだ。
健全なスピードで大人になる事が大切なのだ。
その目指す大人が信用できる事が大切なのだ。
「子どもを不幸にしないように、裏切らないように努める、けして子どもに罪はないのだから」
それが子どもを世に生み出した大人たちが、子どもたちのためにも、社会のためにも、自身がさらに成長していくためにも一番に考えなければならない大切なことなのだ。
自分は恥ずかしくない大人なのだろうか?
胸を張って子どもの進む未来にアドバイスを出来るのだろうか?
客観的に自分をみつめて、己の未熟さを理解できるのがまさに「大人」なのである。
この一番大事な事を、子どもを世に生み出す前にしっかり学習し理解してこそ、親になる資格が備わるわけであり、その後発生するかもしれない浮気や暴力、借金などの全ての己の欲望の問題に対して「子どものために、家族のために」と当たり前に考え、踏みとどまったり、反省したりできるはずである。
最近では、流行りとさえなってしまった「出来ちゃったから責任をとる」という責任は「結婚をします」ということだけではなく「子どもを裏切らない大人たちになります」という事なのだと当たり前に考えられるからこそ「家庭」を持つことが出来るはずなのである。
すさまじい勢いで離婚は増え続ける。
「親になる」ということの定義さえないのだから、深く愛し合った二人は自分たちの人生のゴールがそこにあるものだと思い込み、ただそれをつかみたいと願えばそれはもう簡単につかめる自由恋愛の世の中がこの国にはあるのだ。
だから本当に多くの恋人たちがその先にある「他人と一緒に暮らすさまざまなストレス」の現実を想像出来ないまま、ただ浮かれて幸せをつかみ人に自慢し、酔いしれる。
「幸せになることの何処がいけないのだ」
そんな声があちらこちらから強い調子で聞こえてきそうだが、子どもがいなければ何も問題ない。
男と女の愛が始まって終わる。そこに夫婦の契りがあったのか無かったのかただそれだけでしかないのだが、もし夫婦の契りに意味や定義があるのならば、相手を思いやる、愛を続ける努力はもう少しお互いにあった方が世の中はうまくいくような気がしてならない。
子孫を残す事の本当の意味も、本当はその思いやりや愛の継続への努力も含めたつながりであるのかもしれない。
離婚が良いのか悪いのかはそれぞれが考え判断することであるが、歯止めのかからない離婚率の上昇は人類の大きな危機問題ではないだろうか。
そして、その先にある「本当の地獄」がこの日本と言う国には存在している事を、まだほとんどの人が知らない。
「共同親権」こんな言葉をネットで検索をした頃には、その人はもう日本の法律の不備と家庭裁判所が作り出した地獄に足を踏み入れているかもしれない。
少なからず私はその一人となった。
愛する息子を奪われた理由は「父親であること」だけである。
「親権は絶対に母親が取れる」事あるごとにこの言葉を繰り返し、私に無視と舌打ちとため息の嫌がらせを続けた妻の理不尽な態度には、「耐える」という方法しかなかった。
このような妻を持って私が息子と一緒であり続ける方法は日本には「耐える」しかないのだ。
いくら調べてもこの国には私のような父親が助かる方法はない。
本当に恐ろしい国なのだ。「連れ去り天国」と呼ばれてしまう国なのだ。
だから私は耐え続けた。息子との絆を守るために。
しかし連れ去りはもっとも卑劣な裏切りの方法で行われた。
うろたえる私は弁護士に、裁判所に助けを求める。
「俺は本当に何もやってない!」私の叫びに帰ってくる言葉は「諦めなさい」ばかりである。
無責任な大人が作り出した地獄にはめられた私は何日も眠れずに怯え、泣き続けた。
そして決意したのだ。
これは冤罪でしかない。
絶対にあきらめる訳にはいかない。
壊れた心に負けてはならない。
逃れられない孤独の恐怖に負けてはならない。
絶対に息子を裏切るわけにはいかないのだ。
なぜならば息子はわたしの説明を待っているから。
心の底から笑い転げた日々の復活を待っているから。
私はこの戦いの証しを残して、必ず未来の息子に伝えよう。
そして、同じ理不尽を味わう仲間とともに力をあわせ、今、大きな声をあげるのだ。
「連れ去り」「引き離し」は卑劣でしかないのだと どう考えてもそうなのだと。