「離婚後でも親子が交流できることの大切さ」 堤則昭
私は離婚への過程で、二人の男児を連れ去られ、引き離された父親です。 現在、子ども、男児二人の親権・監護権は元妻にあります。子どもたちの養育環境及び成長の経過を鑑みて、子どもたちの未来について危険性を感じ、一方の親との自由な交流を阻まれた子どもたちの成長の過程を体験した者という立場で陳述したいと思います。
別居前、私と子どもたちは、長野県白馬村の自宅で、大自然の元、仲良く、のびのびと生活していました。父子関係はきわめて良好で、小さなこの村では、模範的、理想的父子関係として村中の評判でした。そして、それは元妻ですら否定しがたいものでありました。その親子関係を2004年9月、長男8歳、次男5歳の秋に、突然に奪われました。
仕事から私が帰宅すると、そこにはもう、子どもたちの姿はありませんでした。その数週間後、諸手続きのために元妻と共に訪れた子どもたちと数時間の面会ができました。その私との別れ際、長男が言った言葉です。
「じーじ(元妻の父)が病気だからって言われてぼくたちは東京に連れて行かれたけれど、なんで父さんと住めなくなるのかわからない。何で自由に会えないのかわからない。ぼくはまた父さんとこの家で暮らしたい。東京の家は嫌だ。だから家出して戻ってくる。それまで、父さんも寂しいだろうけどがんばってね。ここにぼくのサインをしておくから、それまでの間これを見て我慢していてね。」そう言って離れたきり、子どもたちとは連絡すら取れなくなりました。
後日子どもから聞いた話では、長男はこの後、本当に元妻に私と私の家で暮らしたいと、東京の家を出たいと話したそうです。しかし、元妻にはひどく怒られ、その後私のことを口にする度に嫌な顔をする、さらには私の悪口を言う元妻とその周辺の大人たちの様子を見て、次第に私のことを口にはできなくなったとそうです。
2005年5月、私は小学校3年生になった長男の運動会に行ってみました。予定より早く着いて学校周辺を散歩していると、登校中の長男が私を見つけて、2車線ある交通量の多い道路の反対側から、「父さん」と叫んで手を振りました。私が近くによると、長男は走って来て私に抱きつきました。そして、一緒に登校していた長男の友人には、「これがぼくの父さん」と自慢げに紹介してくれました。そして、運動会が始まって、クラスで集合しているところに私が近づくと、今度はクラスのみんなに「みんな見て、これがぼくの父さん!」と言って抱きついてきました。競技中も他の子どもたちと同様に私の姿を探してはニコニコと手を振ってくれていました。そして、こんな長男の姿はこれが最後となりました。ここまでが、連れ去られた後の子どもたちの自然な姿です。
元妻本人すら否定できない同居時の父子の親密さを恐れた元妻は、ここからより一層の子どもたちへの洗脳を強めていくことになります。子どもたちに全く会えぬまま迎えた2006年5月の運動会。次男も小学校1年生、長男は4年生。二人を同時に見ることができます。しかし、2005年の時の子どもたちの様子を想定して出かけた私は愕然としました。長男は私を見てもまるで無視です。目を会わそうともしません。当然に手を振ることも抱きついてくることも、話すこともしません。
次男は連れ去られてから、私と面と向かって会うのは1年半ぶりです。久しぶりにまともに私と会って、最初は戸惑っている様子でした。しかし、会話を続けるうちに、次第に打ち解け、私のことを度々探す様子も見せました。そして昼近くには、競技終了後の移動の合間を見て、私に走って抱きついてきました。同居時には体を使ったアクロバティックな遊びが大好きだった次男も、長らくそんな刺激がなかったせいか、高く持ち上げただけで怖がっていました。さらには、昨年の長男同様、応援席に戻った次男は私のことを周囲の友達や先生に紹介し始めたのです。その日は以降、次男は他の友達と同様に、「お父さん!」と叫んで私に手を振っていました。
この時点で、ある程度大人の話を理解できるようになって、監護親への忠誠心から、私を排除せねばならなかった、そして特に洗脳に力を入れられていた長男と、まだ幼く、洗脳も長男の次とされていた次男とで大きな違いが現れていました。二人の子どもを同時に同程度に洗脳することは難しいため、このような差が生まれたのです。
未だ父親を慕おうとする子ども達の様子を見て、元妻はさらなる引き離し工作をすることになります。2006年8月、子どもたちに生まれ故郷のお土産を渡そうと、私は子どもたちの元を訪れました。そこで、プールを終えた長男に出くわしました。私を見た長男は、後ずさりをし、一目散に逃げ出したのです。私はその後、次男が預けられている児童クラブを訪れましたが、次男との面会は拒否されたため、持ってきたお土産を渡してくれるよう、児童クラブの職員に頼んで帰りました。
私は子どもたちと引き離されてから、まともな交流は何一つなかったのに、長男のこの変わり様は何なのでしょうか。私は引き離されていることから当然に長男に影響を与えることはできません。ですからこの変化は当然に子どもたちの監護環境がもたらしたものであることは言うまでもありません。
その後の2006年9月、子どもたちから手紙が来ました。長男からの手紙ですが、書き出しに、子ども自らの意思で自分の父親宛の手紙に「堤のりあきさんへ」とは書かないでしょう。現に今までは「とうさんへ」と書かれていたのですから。また、子ども自らの意思では手紙には書かないだろう、お金の話も書かれています。これらは元妻の監視下で書かされたことは明らかです。一方の次男の手紙は純粋にお土産に対するお礼が書かれていました。洗脳のされ方の度合いが違うことがここでも見て取れるでしょう。
2006年12月、洗脳の遅れていた次男への洗脳の強化が窺われる手紙が着ました。今回は、次男自らの手によって「このしゃしんはいりません。」と書かされ、私が次男を抱っこしている写真が2枚同封されていました。また、「ぼくたちはあいたくないんです。」と書かされています。
私は引き離し被害者のサポートを多くしてきましたが、こうした手紙は引き離しを企てる親の常套手段として用いられています。私の子どもたちもその例に漏れず、このようなことをさせられているわけです。
添付されていた絵には、怒った顔で牙があります。吹き出しには「こら~!」、「にげろー!!!!」と書かれています。これは、前述の 2006年8月の出来事を受けてのことです。2006年5月の運動会で会えて以来、何の関わりも私とはもてなかった次男が、運動会のときの様子から、このように変化する原因が当然に私にある訳がありません。接触できていないのですから。やはり、監護環境によるべきものと言わざるを得ないのです。
こうして、私の子どもたちは自らの手で、生まれて以来親密だった、愛したい対象、愛されたい対象である父親との交流を断たされることとなりました。
この間、私は面接交渉調停(合計3回)を経て、子どもたちとの自由な交流の確保に努めてきました。そして、子どもたちとの交流がかなってくると、子どもたちには大きな変化が現れてきました。
2007年5月、長男小学校5年生、次男2年生。引き離されてから初めて子どもたちが生まれ育った我が家に帰ってきたときです。このときは元妻も近所に滞在していました。子どもたちの目線は定まらず、口は開きっぱなし。二人してカメラを持っています。これは、私の生活の様子を撮ってくるように言いつけられたスパイ用のものでした。それでも、時間が経つにつれ、二人の表情、特に次男は和んできました。次男は私に抱っこやおんぶをせがむようにもなりました。
しかし、このときのスパイ用の写真に写ったものについて、子どもたちは、元妻およびその周囲の人達から私の悪口を聞かされました。そしてその後の運動会。次男は私の姿を追いますが、長男は目も合わさず、私が写真を撮ることすら断りました。
2007年8月、2泊3日だけの宿泊面会が行われました。母親の監視の目から遠く離れた状況下で、急速に父子の絆が回復されていったのです。子どもたちの満ち足りている様子は写真などでも十分に汲み取れるほどのものです。私を見て逃げ出した、目を合わさずに無視をし、「会いたくない」との手紙を書いた子どもたちとはとても思えません。
このときに次男が漏らした言葉があります。「ぼくは母さんやじーじ達の言うことがおかしい、おかしいと思っていた。でも、やっぱりおかしいということがわかった。ぼくはお父さんのことを好きでいて良かった。お父さんが死んじゃったらどうしようってずっと思っていた。これからも父さんはずっと長生きしてね。」
長男もボソッとこんなことを言いました。「母さんも今回はちょっとだけしか父さんの所に行けないけど、冬休みは1週間居させてくれるって言ってた。冬休みはもっとたくさん居られる。」
やはり、こども本音は、愛したい人、愛されたい人との愛情交歓は自由に許されたい。そして、他の普通の子どもたちと同じように、両親が必要なのです。しかし、この楽しい様子を知った元妻はさらに長男の洗脳を強化します。この時点で長男の洗脳の方が容易であることを悟ったのです。
調停での取り決めの毎月の面会は一度もなされることはありませんでした。
それでも、2007年12月の冬休みにはやはり元妻の監視の目から離れた面会ができました。夏休みに子どもに話されていた1週間ではなく、2泊3日でしたが…。
しかしながら、長男の心は閉ざされつつありました。面会初日には、「別に父さんが死んだところで悲しいともなんとも思わない。母さんが言っていた。父さんみたいにめったに怒らない人のところに居ると、だめな人間になっちゃうって。ぼくはだめな人間にはなりたくないから父さんとは会わないほうがいい。母さんはがんばってぼくたちを育てているのに、父さんは何もしてくれないから、母さんが死んだら悲しいけど、父さんが死んでもなんとも思わない。」
でも、そう言いつつも、2日目には打ち解けずにはいられません。終始私にぴったりと身を寄せ、甘え始めるのです。本心ではやはり、愛したい人、愛されたい人との愛情交歓は自由に許されたい。そして、他の普通の子どもたちと同じように、両親が必要なのです。
しかし、帰る日の長男の様子は2007年8月とは大きく違っていました。前夜からの大雪に見舞われて交通機関のダイヤが大荒れ。道路もいたるところ通行止めで帰宅が危ぶまれたのです。天候がもっと荒れて帰れなくなることを祈っている次男に対して、長男は通行止めで回り道をさせられ、時間が過ぎるに従って顔色がこわばってきたのです。絶えず、帰れなかったときの母親の言動ばかりを気にかけていました。
その後は2008年4月の春休みに東京で少し会うことができました。長男は全く目も合わさず、口もききません。元妻が近くにいると警戒をするようです。次男はといえば、隙を見てはニコッとしたり、手を振ったりしてきます。そして、夕方の帰り際には少しゆっくりと会うことができました。写真ではやはり、表情が違ってきていることが容易に汲み取れます。
この日までの間、私との交流はなかった訳ですから、その原因が私ではないことは言うまでもないことです。ここで、次男にはある異変が起きていました。冬休み以来、父親に会いたいのに会えない。会いたいということも、そう思うことも禁じられている。今や長男も次男の父親への想いを非難する。つまり、家族、親族、周囲の大人たち全てが次男の、父親への想いを否定する。そんな中での毎日の生活にストレスを感じた次男に脱毛症状が発生し始めたのです。肉眼で見るとかなり目立つもので、本人も気にして、いつも帽子をかぶっていました。
それほどまでに、自分の本当の気持ちを、しかも、それが人間の基本的欲求である、親に愛されたい、親を愛したいその気持ちを理不尽に否定されることのストレスは大きなものなのです。時を同じくして、調停条項を守らない元妻に対して再度の面接交渉調停を申し立てていた私は、その調停の中で毎月の面会を守らせるように訴えました。その結果として、月に一回の面会は始められました。
このころから急速に次男の脱毛は治まっていきました。そして、夏休みには5日間の面会が可能になりました。これは、次男が断固として譲らずに、元妻を黙らせてしまったために可能となったものでした。ですから、面会も次男だけです。
ところがこれも、元妻は次男には1週間の滞在を認めておきながら、私には5日を約束させたのです。つまり、母親は1週間いても良いと言ったのだけど、父親が5日で帰したということにしたかったのです。しかしそれを見抜いた次男は、「また母さんにだまされた!」と言って烈火のごとく怒り出しました。こうして私は、次男とはより親密に、そして長男とは徐々に疎遠になっていくのでした。
今や小学校4年生になった次男。この春休みも1週間私の元に滞在しました。私の手の空いているときにはいつも私に抱っこ、おんぶ、肩車をしてきます。そうでなくとも手をつなぎ、寝るときはぴったりと体を密着させてきます。 次男が寝ている間に仕事を済ませてしまおうと私が起きると、すぐに目を覚まして私を呼びます。日中も私が視界からいなくなると、すぐに大声で私を呼びます。小学校4年生にもなり、体もそこそこ大きくなっているにもかかわらず、それは今までの失われた5年間を取り戻そうかとするかのようにです。
運動会では、今までは元妻は一切の情報を私に伝えなかったのですが、過日は次男が、自分が出場する種目をマーキングしたプログラムと入場券、応援するのに最も良い場所まで明示した上に、昼休みの家族との食事の時間には私と二人で食事をしたいと書いた手紙を自分で郵送してきました。
今次男は、自分の意思で、母親や長男の居ない時を見計らって私に連絡をしてきます。そして、次男は言いたいことを自由に私に言うようになってきました。
「どうして母さんは何の相談もなくぼくを連れ去ったの?どうして父さんはそれを止めなかったの?ぼくは父さんの家で暮らしたかったのに。」
「母さんの周りの人達は、父さんの悪口を言うから嫌いだ。そして、ぼくが父さんのことを悪く言わないと機嫌が悪くなる。ぼくは大好きな父さんの悪口は言いたくない。ぼくの父さんだから。」
「ぼくはとても心配で怖いことがあるんだ。それは、ぼくが大きくなったとき、母さんみたいなお嫁さんをもらっちゃうのじゃないかって。ぼくは母さんみたいなお嫁さんは欲しくない。そんなのだったら結婚はしない。」
「父さん、ぼくは堤に戻りたい。勝手に名前を変えられて…こんなの嫌だ。早くぼくの名前を元に戻して。」
「父さん、ぼくを早く父さんと暮らせるようにして。父さんと暮らせば、ぼくは母さんとも自由に会える。好きになりたい人を悪く言わなくてすむ。ぼくはもっと自由に暮らしたいんだ。だから、父さん、がんばってぼくを連れ戻して。母さんが怖いし、お金もないし、道もわからないから家出はできない。だから、父さんがぼくを連れ戻して。」
一方の長男は、この春、中学生になりました。もう私とは会わないと宣言しています。普段家には寄り付かないようです。近所の元妻側の祖父宅へ入り浸って、普段は留守のその家で、自由に乱れた生活を送っています。もう何人かの女友達もいるようで、カラオケなどを中心に遊びまわっているようです。過日はそのデートのために祖父のお金1万5千円ほどを黙って持ち出したそうです。
そんな長男のことを次男は私にこう話します。「長男も本当は父さんのことが大好きなんだよ。ぼくは知っている。だけど、母さんが怖くてそれが言えないんだよ。だから会いたくないなんて言っちゃってるけど、許してあげてね。だからぼくが父さんと一緒に住んで、長男を助けてあげるんだ。そのためにも、父さん、がんばってよね。」
連れ去り当時から、ある程度の物心がついていて、だからこそ洗脳されやすく、両親の葛藤から逃れて、私への想いを抑圧して育った長男。連れ去り当時は小さ過ぎて何を言われても良くわからぬままに、物心つくころには私との交流ができ始めた次男。この両者を見比べて、どちらの方が満ち足りているかは言われるまでもなくはっきりとしていることでしょう。
もしも私が、2006年12月の「もう会いたくない」との手紙を真に受けて、そのまま子どもたちと会うことを断念していたならば、どうなっていたことでしょうか。今の私と次男のこうした関係は失われてしまっていたのです。
離婚しても、親子はこんなにも満ち足りた、こんなにも自然な交流ができるものなのです。それを妨げる原因さえなければ…。それを妨げる原因とは、そうです、監護親による引き離しです。監護親の視点をちょっと変えてやるだけで、自分上位から、子ども上位へ、そしてその子どもの最善の利益を望むスタンスを持つだけで、子どもにはこんな笑顔が蘇るのです。
今、私の次男は、両親が離婚していても、確実に両親を得ているのです。それがいかに安心で幸せなことか。それはこの子の笑顔が示しているのではないでしょうか。
以上